掛川市を旅しよう

東海道・日坂宿【小夜の中山】

2021.7.19

掛川の観光スポット、東海道の日坂宿の近くの小夜の中山(佐夜の中山)

そこには夜泣き石という伝承があり、地元の子なら一度は聞いたことがあると思います。色々諸説あるのですが、私が聞いたお話をさせて頂こうと思います。では、小夜の夜泣き石という物語を語りましょう。

↑の真ん中下の所にある大きな石が夜泣き石で旅人たちが見ています。

小夜の夜泣き石 ~ 佐夜の中山の夜泣き石 ~

その昔、お石という妊婦が住んでいました。麓の菊川から帰る途中、突然お腹が痛くなり、丸石の近くでうずくまってしまいました。そこに轟業右衛門という男が通りかかり、介抱してくれていたのですが、お石がお金を持っていると知ると、お石が持っていた護身刀でお石を切り殺してお金を奪い去ってしまいました。

その時の切り口から赤ん坊が生れ落ち、丸石に乗り移ったお石が夜になるとすすり泣く事から丸石は夜泣き石と言われる様になりました。

生れ落ちた赤ん坊は、夜泣き石のおかげで近くの寺の和尚様に気づいてもらえ、音八と名付けられました。水あめを母乳代わりに与えられ、すくすくと成長した音八は、刀の研ぎ師に弟子入りいたします。そこでとあるお侍様に出会います。

そのお侍様は、短刀の研ぎを依頼してきました。とてもいい刀で、刃こぼれしている事がとても残念でした。それをお侍様に言うと、「数十年前に、小夜の中山でとある妊婦を切り捨てた時に刃こぼれしてしまった」と言うのです。音八はその話を聞いて、この男が自分の母親の仇だと気づきます。

音八は葛藤していました。研ぎ師になる時に育ての親である和尚様に言われたのです。『敵討ちの為に研ぎ師になるというのなら、相手が反省をし悔いているのなら許してあげなさい』と…、そこで音八はお侍様に聞きます。「その時の事で反省や後悔した事はありますか?」お侍様は言います「その時の金があったからこそ、こうして成功したのだから後悔などしていない」その言葉を聞いて音八は名乗りをあげ、見事母の形見の短刀で仇をとる事が出来ました。 その後、弘法大師(空海)がこの話を聞き、お石に同情し石に仏号をきざみ、立ち去ったといいます。めでたしめでたし。

私がきいた話とは少し違う所もありますが、概ねこの様なお話でした。

因みにですが、この時の形見の刀は小夜左文字では?と言われており、現存しています。

敵討ちの護身刀 ~ 復讐刀 ~

この敵討ちの時点では、ただの左文字だったのですが、この後とある武将に名付けられます。細川幽斎(細川藤孝)という安土桃山時代(戦国時代)の方です。この由来、2つ説があるのですが、皆様はどちらが本当だとおもいますか?

一つは、【西行法師の和歌にちなんで名づけられたという説】

年たけて また越ゆべしと 思ひきや 命なりけり 小夜の中山

という小夜の中山の和歌に因んで、細川幽斎(細川藤孝)が名付けたという説

因みに、和歌の意味は「年をとってまた小夜の中山を越えることがあるなどとは考えもしなかった。それができるのは、命があればこそなのだな」という意味です。

二つ目が、【敵討ちにちなんで名づけられた説】

ここで先程の小夜の夜泣き石が関係します。

同じような逸話この短刀にあり、それを聞いた細川幽斎(細川藤孝)が名付けたという説

どちらにしろ、細川幽斎が名付けたことには変わりないですね。

因みにですが、この細川幽斎とても凄い方で、幕臣で三英傑に仕え、当代随一の教養人であり、武芸・文芸様々な事にたけた方で、なんでも出来るチートとも言われたりしてます(笑)

この方の息子も戦国一のヤンデレなど色々な逸話があり面白いので気になる方は調べてみて下さい。

夜泣き石は二つある ~ どちらが本物? ~

今回は小夜の中山のお話でしたが、如何でしょうか?

幼い頃に聞いた物語なので、もう少しセリフ等もあったのですが、とても長くなってしまうので、割愛させて頂きました。結末が和解して終わったりと色々諸説あるので、調べてみるのも楽しいと思います。

実はこの夜泣き石、二つあります。お話に出てきた寺と小夜の中山トンネル近くにあります。久延寺は伝承の場所になるので、本物に似せて作った祀る為の石になります。本物の夜泣き石は小夜の中山トンネル近くにある方です。

あと、母乳代わりの水あめですが、今は子育て飴はお土産として売っていますので良かったら食べてみてほしいです。固形の飴と柔らかい水あめのものとあります。個人的には水あめの方がおすすめです。

興味がある方は、小夜の中山に行ってみて下さい。

次回は、“全国で唯一”掛川のこの八幡宮のみで御祭神として祀られている、事任八幡宮になります。

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